グッバイ、エンドラ

奥様は魔女」のサマンサの娘がタバサ、というのは某ブランド名でかなり知られていることだが、ではサマンサのお母さんは何という名前か?というと、余り知名度は高くないようだ。彼女の名はエンドラ。人間なんかと結婚した娘を心配し、娘婿のダーリンを明るく「下等動物」と呼ぶお姑さんである。演じていたのはアグネス・ムーアヘッド(Agnes Moorehead)。嬉々としてダーリンをいびり、いじめ、魔法で好き勝手ないたずらをする彼女が、私は「奥様は魔女」の中で一番好きだった。


さて、ここで登場するのが私の祖母(かん子さんの曾祖母)である。大正生まれの彼女は、当時にしてはえらく長身で、165cm近くあった。「(横浜の)元町を歩くと人が振り向いて見たものよ」とよく自慢していた。背が高すぎるせいか、のんびりした性格ゆえかは知らないが、当時としては婚期も遅く、結婚したのは30間近だと聞いている。
この人が、エンドラさんによく似ているのである。顔も何となく似ているが、それ以上に性格がエンドラさん。多分魔女じゃないし、私の父をいびったりもしなかったが、孫や甥たちのことは嬉しそうにちくちくといじめていた。本人は「イジワルなんてしてないわよ、や〜ねえ」と言うだろうけれど。言われている方が暗くなるようなことはなかったのは、まあよく言えば人徳なんでしょうな。
一度、「おばあちゃん、『奥様は魔女』って知ってる?それに出て来るエンドラっていう魔女が、おばあちゃんにソックリだよ。」と言ったことがある。祖母は、「じゃあ、いい魔女だね」と言っていた。まことにいい根性の持ち主である。


その祖母が今月他界した。91歳。
私の両親宅のそばにある高齢者専用マンションに住んでいたのだが、去年二回骨折。自力での生活を前提とする施設だったので、今年から介護サービスつきの別施設へと引越しをした。移動後の検査で腎臓に癌が見付かった。既に治療できない状況で、余命は長くないと知らされた。
さすがに落ち込んだようだけれども、私がかん子さんを連れて見舞いに行くと、にこにこと歓迎してくれた。五月には小さなこいのぼりに彩色してくれて、それを持って遊ぶかん子さんの写真を渡したら、とても喜んでくれた。
私自身は臨終の場には間に合わなかったが、実の娘である母と私の姉が最期を看取った。苦しむことの少ない、とても静かな様子だったという。


食いしん坊で、ミーハーで、ちょっと見栄っ張りで、天然ボケ。「みんな読んでるから」とベストセラーを読みたがり、「みんな持ってるのよ」とダイヤの指輪を欲しがった。楽しいこと、面白いことをいつも見つけてきて、退屈など知らないようだった。煩悶や苦悩があったとしても、孫たちにそういうものを見せることはなかった。いつも明るく、弱音を吐く時も冗談交じりだった。いよいよ危なくなり、食事が進まなくなって、医者に「何か食べたいものはありませんか?」と聞かれ、「ステーキが食べたい」と答えた人である。かくありたい、かく老いたい。
長身は寄る年波と病のせいで縮んだが、現代の標準体型である私の母は、結局祖母を追い越すことができなかった。納棺の時、足指が側面に当たっているのを見て、本当に背の高い人だなあと改めて思った。


私は、肉体は精神の器であると思っている。重要なのは中身であって、箱ではないと。
しかし、火葬場で炉に入る棺を見た時、それまでで最も強く別離の悲しみを覚えた。おばあちゃんが消えてしまい、もう二度と会えないのだということを、そこで初めて知ったような気がした。ただの器が消えるだけだ、とは思えなかった。
私たちは他者の精神に相対する機会はない。ただ、その行動や意思の表出によってのみ、その人格を知ることがある。しかし、肉体は常にそこに見えていて、私たちにその人となりを示す。肉体は精神を内包するというよりは、肉体は精神のステージであると言う方が正しいのかもしれない。両方とも重要なのだ。
魂の不滅について私は知らない。でも、肉体が消えていくことは知っている。そして、それを失いたくないと強く思った。その人にまつわる記憶が刻まれている顔、遠くからでもそれと分かる体格、そういうものが消えることがとても悲しかった。
祖母のステージは幕を閉じた。アンコールと呼んでも、緞帳はもう上がらない。でも、ロングラン公演の記憶は残る。時々思い出して、拍手をしよう。


葬儀は、親族のみで行われた。久し振りに会う親戚同士、祖母の古い写真を見たり(若い頃の祖母と私の姉が怖いくらい似ているのに大笑いしたり、祖父の耳がかん子のそれにそっくりなのに気付いたり)、エピソードを語り合ったりして、しんみりした中にも笑いの絶えない式となった。
バイバイ、おばあちゃん。立派な大魔女になってね。「奥様は魔女」の再放送を見たり、「ねるねるねるね」のCMを見たりする度に思い出すよ。