詩を読む楽しみ

小説は読むけど、ブンガクはちょっと……という人は多いと思う。かく言う私も、娯楽小説以外に手を出すことは稀だ。恥ずかしいことに、川端康成井伏鱒二もダンテもトルストイも読んだことがない。
しかし、文学以上に、詩を嗜む人は少ないのではないだろうか?読書家の友人が何人かいるが、「今年のH氏賞××だってえ。まじ納得いかね」とか、「ランボーってちょーいけてね?」とかいう会話をしたことがない。誰もしないような気もするが。
二度目になるが、かく言う私も詩に造詣が深いわけではない。本棚にある詩集は二冊、三好達治と永瀬清子だけだ。正しい解釈を学んだこともなく、またそのセンスもない。高校時代に「ポオル・ヱ゛ルレエヌ『落葉』(上田敏海潮音』)の解釈をせよ」という課題が出て、「詩を解釈するのは、詩に対する冒涜である。よって私は詩を解釈しない。」と書いて提出したら、呼び出しを食らった苦い過去ならある。


それでも私は詩を読むのが好きだ。
現代における詩は、個人的感情のエッセンスを、言葉に直して放り出したようなものだと思っている。(ムカシの詩は、もっと社会的なものだと思っている。)だから唐突だったり、妄想のようであったりしてもおかしくはない。ただ、本来個人的な心情を詠っているので、「分かってもらえる」かどうかは作者の意図や技術にかかっている。共感を多く得られれば「サラダ記念日」になれるし、意地になって誰にも理解不能なようにすれば、文学上の至宝になるかもしれないし、白衣の人がカルテの間に参考資料として挟んでくれるかもしれない。
作り手はこのようにタイヘンである。しかし、その点読者は楽だ。どんな分野においても、それは変わらないはずなのだが、こと詩となると尻込みする人が多いように思える。


なぜ、詩は敬遠されるのだろうか。
詩には起承転結がないのでつまらない。描写が独りよがりで何を言いたいのか分からない。支離滅裂で意味不明なのに、「理解できない」と言うとバカだとか野暮だとか思われる。もはや詩の時代ではない。音楽が付いていればまだしも、詩だけでは退屈だ。上野の停車場で泣き濡れて蟹を食べているような変人が書いているので、イメージが悪い。詩人は貧乏だ。詩人には直木賞芥川賞アカデミー賞もない。詩人には恨みがある。詩人はご飯をこぼす。詩人は人類の敵だ。……等々、きっと様々な理由があるのだろう。


だが、(私の勝手な思い込み世界では)詩とはもっと気楽なものだ。
理解できないものは、理解しなくていいのだ。勝手な解釈をするのも楽しいし、あなたが国語教師でなければ、それが「正しい」かどうかを気にする必要もない。(高校の時も、これくらい気楽にしていればよかったなあ。)例えば、下記をお読みいただきたい。


大空
純銀
船孕み
水脈
一念
腹に
臍あり。


これは、「いちめんのなのはな」でおなじみ、山村 暮鳥の「汝に」という詩である。*1
「おおぞら じゅんぎん ふねはらみ すいみゃく いちねん はらに へそあり。」
まったくもって意味不明である。しかし、声に出して読むと実に楽しい。それだけでいいではないか。美はただ美として存在し、利益や副産物を生むためにあるのではない。詩もまた一つの美を目指すものなのだ。
無論、解釈してもいい。野望を抱く「汝」が星月夜に船を出す様子、とか。「汝」が哺乳類であることを請合う応援歌である、とか。
話の長い困ったオッサンがいたら、会話に織り交ぜるのもいいかもしれない。
「最近の若いもんはウンタラカンタラ……」
「そうですね。大空純銀船孕みというくらいですからね。」
「ワシが若い頃した苦労と言えばウンタラカンタラ……」
「さすが、部長はいかにも水脈一念腹に臍ありって感じですしね。」
どうせ聞いてないから大丈夫。


そんな訳で、詩は楽しい。
蛇足ながら、私が最近好きになった詩人は、一青窈(ひととよう)。詩集はまだ出ていないようだが、「一思案」なんぞは現国の教科書に載せたっていいくらい(褒め言葉)だと思っている。

*1:

山村暮鳥詩集 (現代詩文庫)

山村暮鳥詩集 (現代詩文庫)

山村暮鳥詩集」収録