弟の家には本棚がない

弟の家には本棚がない―吉野朔実劇場

弟の家には本棚がない―吉野朔実劇場

「ジュリエットの卵」、「少年は荒野を目指す」等で知られる漫画家の吉野朔実は、読書家としても有名である。上記二作(+二作*1)は、彼女の絵(まんが)と文章による本読みガイドだ。
これを読むべし、ではない。これを私はこう読んだ、あなたは?というものである。
私は……彼女とトモダチになりたくなった。


初めて吉野朔実を知ったのは、「いたいけな瞳」第一回が掲載された「ぶ〜け」を読んだ時だった。
そのころのぶ〜けは、「なかよし」「りぼん」「花とゆめ」を見慣れた少女にとって、えらくへんちくりんな見た目の雑誌であった。版形は小さい。厚みは電話帳を凌ぐ。手に持つとずっしり重い。表紙は裏表つながったデザインで、無粋な広告でイラストが遮られることなどなかった。そして、今思えば恐ろしく豪華な執筆陣を構えていた。
水樹和佳(子)は「イティハーサ」連載中、松苗あけみは「HUSH」が終わって「ロマンスの王国」が始まったところ。清原なつの花物語」に心打たれ、「永遠の野原」で逢坂みえこに出会った。夢路行を初めて読んだのは、「鳥を見ていた午後」だったろうか。耕野裕子は「クリア」以来読んでいないのに、今でも強烈な印象が残っている。そして、吉野朔美だ。
「いたいけな瞳」はオムニバス、毎回読みきりで連載された。繊細な描線、示唆に富む物語、華麗な構図、繰り返し現れる名前だけの少年、特別な人生と特殊な人々、そして平凡な日常……その全てに私は魅せられた。堪能した。でも、それだけだと思っていた。「すっごく楽しかった。じゃあ、さようなら。」というような……。
初めて読んだのは、既に十年以上前のことだ。先日「いたいけな瞳」の文庫版*2を読み返して驚いた。「それだけ」どころじゃなかった。
私はこの作品に育てられていたのだ。彼女の名前が、私の土台のパーツの多くに刻印されているのだ。
ものの考え方、好きな言葉や台詞、言い回しに影響をうけていることは勿論、「罪のない人が何の意味もなく死ぬ」と言われたら何と返答するか、「あなたにはちょっと難しいかもね」と言って人を怒らせること、友情が恋愛に勝ると思う理由……全部この作品から取っていたのだ。無意識に。全部忘れて。
改めて、母校の教師の偉大さに気付いたような気分になった。


彼女自身の土台は、幅広い読書遍歴から生まれるものらしい。それを綴った本書は、読書家の友人との交友も相俟って、まことに充実した内容となっている。
柴田元幸氏の薦めでオースターを読み、ぞっこんにはならないが気になって次々に読んでしまう。「本読まない人間って、それだけでオレ信用できない。君つき合える!?本読まない人間と?」と極端なことを言ってしまう友人(精神分析医の春日武彦氏)に、「あわわ」としか反応できない。本が読みたいだけなのに読書感想文を求められる理不尽に怒り、巻末の解説を要約して提出したことがある。ストーリーを推理して読み進むが、思い通りに行かずに勝手にもやもやする。ピンと来ない本を友人に送りつけるも、他の友人から同じ本が来てしまう。外出時に携行した上下巻の上巻だけを読み終えてしまった時、つい下巻を(家にあるのに)買ってしまうことがある。趣味の違う父親へ薦める本に迷い、必要以上に真剣勝負してしまう。赤毛のアンが好きな母親を愛しているけれど、同じクラスだったら友達にはならなかったかも、と考えてみたりもする。好調読書の波に乗って、色々な本を読み始め、結局読み止しになっている本が山積み。友人の自分とは異なる本の読み方に興味津々。短歌と俳句を比べるなら、自分は短歌派。怖い本には重石をする。面白い映画は原作が気になる。
こういう方なので、リストの中には私が読んだ本も多くある。中には私が挫折したもの*3もあり、感想が良く似たものもあり、同じ登場人物(ローレンス・ブロックの弁護士エイレングラフ!)が気に入っていたり。読んで「面白かった!」と思ったのに、忘れてしまうたくさんの本を思い、「せめて、それらが私の心の奥深くに影響を与え、潜在意識として密やかに息づいていると信じたい。」と思うくだりには、共感のあまり涙が出そうになった。
羨ましいことに、彼女の周囲には、同じ本を読んで食事しつつ感想を語り合える人が複数いる。私は丈夫な体とまっとうな精神を持ち、食うに困らず飲むに陥らず、友人には恵まれ、気難しい家人は人として面白く、世界一の猫と暮らし、きわめて平凡に幸福である。しかし、私と同じくらい本を読む友人が身近にいない。別に自分のコピーがほしい訳ではない。ただ、自分とは異なる見解を聞いたり、共感したり、新しい何かを持ち寄ったりする……そういう関係を時折切望してしまう。傑作と思える作品を読んだ後は特に。こういうものを読んだ時は殊更。
わがままは承知の上だ。自分も他者に良い友人たれという忠告も、前以て拝聴しておく。しかし、ついでなので都合よくそんな人が隣に住んでいたらいいなあ!とまでずうずうしく欲張っておく。★★★★☆

*1:第一作(持ってる)

お父さんは時代小説が大好き―吉野朔実劇場

お父さんは時代小説が大好き―吉野朔実劇場

 最新作(未読)
犬は本よりも電信柱が好き (吉野朔実劇場)

犬は本よりも電信柱が好き (吉野朔実劇場)

*2:

いたいけな瞳 (1) (小学館文庫)

いたいけな瞳 (1) (小学館文庫)

以下全5巻

*3:

フリッカー、あるいは映画の魔

フリッカー、あるいは映画の魔