永遠の少年少女

永遠の少年少女―アンデルセンからハリー・ポッターまで

永遠の少年少女―アンデルセンからハリー・ポッターまで

優れた児童文学とは、時に大人には魅力的に見えない場合があるという。
私がこれを実感したのは、「クレヨン王国」シリーズに耽溺できなくなった時だった。作品の質が落ちたと思うのは嫌だったから*1、(自分がもう子供ではなくなったと確認するのは寂しかったが)この説を受け入れることにした。まあ、その時既に二十歳を超えていたのだが。
しかし、そんな児童文学を創作するのは子供ではない。子供の心が分かる大人だ。本作の著者アリソン・ルーリーは、第一級の児童文学を著す作家は特別な存在なのだと書く。「本質的な意味で彼ら自身が子供なのだ」と。だから、作家たちは時に大人(学校や教会、更に図書館)に眉をひそめられ、「子供たちを善良な市民に育てる妨げになる」と言われても、子供たちの強い支持を得てきた―彼らが子供である間は。


本作は、そんな児童文学者の知られざる側面や興味深いエピソードと共に、古典と言われる作品の発表当時と現在の評価の違いなどを描くエッセイである。(巻末には紹介された本及び作家の詳細なガイド付。)著者はアメリカの作家・英文学者。大学で児童文学や創作の教授もしている。
知っていると思い込んで、新たに学ぼうとしないようなことを、専門家の解説で見直すのは実に楽しい。
ご存知だろうか?19世紀のマイケル・ジャクソンとでも言うべきアンデルセンの変人ぶり。
発表当時は恐ろしく「進歩的」だった「若草物語」。*230年以上調査されてきた結果によると、アメリカの女性の多くがジョーと自分を重ねて見ていること。
「先進的」過ぎて(あるいは「社会主義的」だとして)批判された「オズ」のシリーズ。登場人物の少女たちは家事を拒否し、王国を支配し、また権威に立ち向かうことも厭わない。そのため、1930〜40年代のアメリカでは、「オズ」のシリーズは多くの学校や図書館から追放されている。
また、興味深くも信じがたいことに、キリスト教原理主義者たちは「魔女が良いものとして描かれている」ことを理由に「オズ」や「ハリー・ポッター」を禁書にすべきだと主張している。
更に、「悪魔の詩」によってイスラム社会から追われたサルマン・ラシュディが創作した絵本「ハルーンとお話の海」*3の紹介には、すっかり心を奪われてしまった。暴力によって執筆活動を制限されたばかりでなく、命すら狙われた作家が描くのは、邪悪な暴君イッカンノオワリによって物語を奪われた世界。語り部の父が失った言葉を取り戻すために奮闘する少年のモデルは、作家と共に潜伏生活を送っていた彼の息子だ。
まこと、子供の物語は面白い。しかし、本作のようにそれらを分析するものをも「面白い」と思えるのは、大人ならではの楽しみであろう。はははー、子供たちよざまーみろ。


本作には不満もある。
作者が時に断定的でまとめ方が乱暴に過ぎるのだ。
「イギリスとアメリカ以外の国で生まれたすばらしい名作やシリーズは、各国にたったひとつしかない」*4と言い切り、記録が見つからないからというだけの理由で、ある女性の夫を「相当つまらない人物だったようだ」と決め付ける。
もーちょっと寛大になっても損はしないと思うぞ。★★★☆☆

*1:月のたまご」のあたりにマンネリが出たようにも思うが、単に私が子供でなくなった時期と、作品の雰囲気が少し変わったタイミングが合致しただけかもしれない。

*2:

若草物語 (福音館文庫 古典童話)

若草物語 (福音館文庫 古典童話)

ルーリーによれば、「若草物語」は南北戦争によって失われた/減少した男手や召使に頼らず、女性たちが自ら責任ある生き方をするよう励ましているという。明らかに活発なジョーだけではなく、メグとエイミーもその時代の新しい女性像を表現している。メグはほとんど家事ができないまま結婚するが、その後は自ら家庭を管理できるようになり「自分の人生の責任者は自分なのだということを確認」する。エイミーが志す芸術の世界は、当時の女性にとっては最先端の分野だった。ベスが象徴するものが、「(他の姉妹のように外へ出ずに)安全な家にこもってばかりいると死んでしまいますよ」ということだなんて、考えたこともなかった。(流石にこれは極端だと思うが。)

*3:

ハルーンとお話の海

ハルーンとお話の海

*4:例として挙げられているのは、イタリアの「ピノキオ」、フランスの「ババール」、フィンランドの「ムーミン