重力ピエロ

重力ピエロ

重力ピエロ

読書を楽しむために「予習」が必要ということはない、と信じている。原則として。
柴門ふみが、自分の漫画の読者には「せめてケストナーくらい読んでおいてよね」と言いたい、と書いているのを見て、必要以上に彼女が嫌いになったくらいである。私とてケストナーは好きだが、それを他の作家が利用してどうする。理解を得られないことで読者に当たるのではなく、予備知識なしに楽しめる作品を創作し、それを誇ってほしいものだ。
しかし、今回「重力ピエロ」を読んで、バタイユは読んでおけばよかったなあ、と思った。別に伊坂幸太郎は「バタイユ読んでないなんて、信じらんなーい」とは言わないかもしれないが。
そう、今回はちょっと今までとは違う。心から「楽しめた」とは言えない作品であった。


以下あらすじ及び若干のネタバレを含む。
ある家族の物語。母は既に他界、父は末期癌で入院中、主人公である兄は遺伝子を扱う企業に勤め、弟の春は落書きを消す仕事をしている。兄と弟は半分だけ血が繋がっている。母が未成年のレイプ犯に強姦されて生まれたのが、春だ。
物語は、家族の絆とともに、少年犯罪の罪と罰、復讐を描く。ミステリとしてはさほど難解ではない(推理癖がある人には先が見えてしまうだろう)し、社会的な問題を扱っているために、今まで読んだ他の伊坂作品のように「腑に落ちる」快感は少ない。登場人物の行動の是非を考えさせる内容である。
しかし、キャラクタは他に劣らず魅力的だ。特に、自分の遺伝子が強姦魔から渡されたものだと知りつつ生きる春と、彼を心から愛する父の描写がすばらしい。今「どんな人間として生きたいか?」と質問されたら、間違いなく私は「重力ピエロのお父さんのような人」と答えるだろう。彼は積極的な鶯の父なのだ。
春は「性的」なものを嫌っている。必要であることは知っているが、「世の中からセックスが消えた途端に、人生が終わってしまうような奴らが大嫌い」で、「セックスや暴力の話をして、さも自分は人の上にいるような顔をしている」作家や哲学者も大嫌いだ。性を神聖視するのも、他人を利用するための道具として扱うのも嫌悪している。彼はバタイユの「エロティシズム」を熟読した。そして、現実の性を考えるのには役に立たないということを知った。バタイユも、嫌いになった。
彼が好きなのは、犬とガンジーと自分の家族だ。非暴力を信奉する彼が、彼と家族のために取る行動とは・・・・・・物語は「本当に深刻なことは陽気に伝えるべき」という方針に基づき、あくまでも明るく綴られる。


ある意味、これは神話なのかもしれない。ファンタジーとか。法律や手続きや決まりごとから逃れて、一柱の裁きの神が許否を定めて一件落着というような。それが良いことなのかどうかは、私にはよく分からない。
ただ、罪や罰を法律ではどうすることもできないということは理解できる。本人の心だけが、それを背負うか投げ出すかを決める。
春は、法律が人間を更正させることはないと思っている。「良心に期待して犯罪を放置していたら、強姦魔はきっと永遠にレイプを行うよ」と言う。私はそうでなければいいな、と思うのと同じくらい強く、そんな奴らに生きる価値はないとも思っている。
伊坂幸太郎は楽しいだけではない。時には自分の中の闇も見せる。心から「楽しめた」とは言えない。しかし、考えさせられた。


そうそう、本作の仙台も、他の作品と同じ場所にあるようです。こういうサービス(?)は好きですが、この本から読み始める人にはどうなんでしょう?★★★☆☆