産んではいけない!

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産んではいけない!
楠木 ぽとす
新潮社 2004-12
評価

少子 子どもが減って何が悪いか! 超少子化―危機に立つ日本社会 論争・少子化日本 未妊―「産む」と決められない

by G-Tools , 2006/10/12



 この本を居間の目に付く場所に放置して就寝したところ、翌朝家人が言った。
「またすごいタイトルの本読んでる……と思って最初の方チラッと見たんだけど、確かにそうかもって思った」
 そう、過激な表題通りの内容ではあるのだが、序章に凝縮されたメッセージには頷かずにいられないだけの力強さがある。


 少子化を憂うる政治家、閉鎖的な親子関係を嘆くニュースキャスター、彼等は赤ん坊を一人で育てたことがあるのだろうか?「産まない」選択を社会に対する無責任だと言うのなら、「産んで育てる」ことの不自由さ・困難さを充分に理解する必要があるのではないだろうか?そうでなければ、その発言それこそが無責任ではあるまいか。
 筆者は言う。現代社会で出産・育児を行うと決意するならば、社会のバックアップが期待できないのみならず、実に多くの面で周囲の無理解に直面することを覚悟しなければならないと。極端だと思う人は多いだろう。不愉快な愚痴を聞かされているようだとも。しかし、まだ「産んでいない」私には、目から鱗を叩き落されたように感じたことの多い一冊となった。★★★☆☆
 賛否両論分かれる内容(かつヒドイ文章)ではあるが、出来る限り多くの人が読むべきでもある。特に、多くの男性には「目から鱗」の良いきっかけとなることだろう。また、今まで当然のように享受してきた「母の愛」が、当人にどれほどの苦労を負わせてきたのかを改めて知り、感謝する契機ともしたい。


 本書に描かれる「不満を持つ母親像」は、従来言われるところの「母性に満ちた母親像」からかけ離れたものだ。子供がいなければ出来たことを指折り数え、本来同じ立場であるはずの夫が身軽なことを恨み、諦めたものの大きさに愕然とし、当然のように子育てに拘束される長い(報われぬ)年月を嘆く女の姿。
 自分で産むことを決めたくせに、育児が簡単じゃないって知っていたくせに、母親なら育児に献身するのは当然のくせに、今更何を言うのやら。電化製品のなかった昔に比べたら、家事は格段に楽になっているっていうのに、本当に最近の母親はワガママだ。仕事をするなら保育園に入れられるし、子育て専業なら子供と一緒に遊んでいるだけでいいっていうのに、これ以上一体何を望むのか。若い女性が自己中心的だから、日本の出生率はここまで下がってしまったんだ!
 お怒りごもっとも。しかし、ご存知だろうか。新生児がいるある母親の一番の望みが、「3時間、いや1時間でもいいから『連続して』眠りたい」というささやかなものであること。会社勤めならば休憩時間を期待できるけれど、子供相手では24時間母親として待機し続けねばならないこと。子供を公園に連れて行くことは、母親にとって「遊び」にはなり得ないこと。公共交通機関を幼児連れで利用することの難しさ。歩いて通るだけならまだしも、ベビーカーを押して歩く「歩道」がいかに「歩行者」にとって使いづらいものか。働く母親が保育園を利用するためのハードルの高さ。ワガママなだけ、自己中心的なだけと言えるだろうか?


 社会のカテゴリは様々な線で区切られている。性差で区切られ、年齢で区切られ、未婚既婚で区切られ、子供のあるなしでも区切られる。男性に許されても女性では眉をひそめられ、若い女性には求められるが中年女性では疎ましがられ、未婚ならば資格があるが既婚では門前払いを食い、子連れの場合のみ歓迎せずということがあってもおかしくない。今はこれ自体を云々したいのではない。雑誌でも市場調査でもごく自然に行われるし、前述の例とは正反対の事例だっていくらでもあるのだ。
 問題は、一人の人間が人生の中でこの線を乗り越えなければならない点にある。「未婚の若い女性」カテゴリから、「既婚の子持ち女性」カテゴリへの移動は、いわばパラダイムシフトとでも言うべき大きな価値観の差を実感させるものとなる。周囲の判断基準は変わり、また自らの環境も大きく変化する。しかし、中心にいる自分自身は突然変われるものではあるまい。それまでの生活習慣や信条を引きずりながら、この変化に対応せねばならない。
 自由な買物や好きな服装ができないと嘆く若い母親を見たならば、あなたは彼女を愚かだと思うかもしれない。しかし、彼女が求めているのが享楽だけだと決め付けてはならない。それまで求められてきた、若く美しく性的魅力を備えた女性という「役割」から、「理想的な母親像」への急激な転換を図れずにいるだけなのかもしれないのだから。
 また、転換を果たした所で達成感を得られるとは限らない。セオリーの素敵なスーツを着たくても、子供のよだれで汚されたくなければ好きでもないユニクロで間に合わせるしかない時もある。なのに、「育児を理由にして女を捨てている」と陰口を叩かれることもある。おしゃれを優先させて、ハイヒールと抱っこ紐を両方使う時もある。すると、危険と不自由をも考慮せねばならない。
 母親ならば、育児に滅私奉公するのが当然。女ならば、自らを美しく保つよう努力すべき。両立させるのは簡単ではない。このような価値観のギャップを乗り越えたり、時に両方に足をつけて立たねばならない人が不満を持ちやすいのもむべなるかな。アイデンティティの問題である。下らないだなどと言うべからず。


 私たちの判断基準の中心には「リスクを避ける」ということがある。前もって様々な事態に備え、損をすることを回避すべきだと思っている。家庭でも職業でも健康でも、安定していることが最も重要だと。
 子供を持つということは、かなり先の見えぬ投機的行動である。どう産まれるか、どう育つかは誰にも分からない。しかし、将来的リスクは容易に想像できる。長期間を無力な生き物の世話で拘束され、経済的にも持ち出しは大きい。子殺しだの親殺しだの、耳に入るのは悪いニュースばかり。しかも、いかに労力・財力を使っても、そこに報酬は望めない。少なくとも、数値的なものでは。
 平成17年版国民生活白書に拠れば、「80年代において少子化の原因は、主として未婚者の増加によるものであったが、90年代においては結婚行動の変化以上に、夫婦の出生行動の変化が出生数を抑制していると考えられる。」
 子供を持たないことを選択する夫婦が増えている。リスクを最小限に抑えようとする理性的な夫婦が、「子孫を残す」という本能よりも「安定した生活を維持する」という判断を優先させることは、別に奇妙な現象ではない。少子化問題を解消することが安定した社会基盤を作るというが、社会のためになぜ個人がリスクを負わねばならないのか。それに報いるシステムも充分にないというのに!
 本書を読まずとも、多くの人が「産んではいけない!」という危機感を持っている。それはただのワガママだろうか?利己的行動だろうか?そうだとしても、誰がそれを責められようか?


 2004年の合計特殊出生率(概数)は、前年度と同じ1.29。ある年次において、ある年齢の女性が平均的に生む子どもの数の割合(女子人口に対する出生数の割合)を年齢別出生率というが、合計特殊出生率とは、15〜49歳の女子の年齢別出生率を合計したもので、1人の女子が仮にその年次の年齢別出生率と同じ確率で出産するとした場合に、一生の間に生むと想定される子どもの数に相当する。なお、将来的に、人口が増えも減りもしない状態を維持するために必要な合計特殊出生率の水準を「人口の置換水準」というが、日本では74年以降、合計特殊出生率が「人口の置換水準」である2.08前後を下回っている年が続いている。(平成15年版国民生活白書などより引用)