物語ははてしない



 文章を読むことと、物語を読むことは違う。
 私がそれに気付いたのはいつのことだったか、もう忘れてしまった。でも、何を読んでいた時に気付いたのかは強く覚えている。「ピーターラビットのおはなし」だ。(下記は当時のものとは若干内容の異なる新装版。)


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ピーターラビットのおはなし
ビアトリクス・ポター Beatrix Potter いしい ももこ
福音館書店 2002-09-21

The Tale of Benjamin Bunny (The World of Beatrix Potter: Peter Rabbit) The Tale of the Flopsy Bunnies (The World of Beatrix Potter: Peter Rabbit) The Tale of Tom Kitten (The World of Beatrix Potter: Peter Rabbit) りすのナトキンのおはなし モペットちゃんのおはなし

by G-Tools , 2006/10/17



 母方の祖父が私の誕生を記念して買ってくれたこの小さな絵本を、私は何度も読み聞かせてもらい、その内に自分で読むようになった。何度も読んだ。しかし、その時点で私ができていたのは、文字を追い、その意味と発音を確認するという作業でしかなかった。
 それがある日、この「おはなし」はある若い向こう見ずなうさぎの冒険譚である……ということが突然理解できた。ピーターがマグレガーさんに追われる際の恐ろしさや、ほうほうの態で帰宅した際の安心感・虚脱感を、初めて「感じる」ことができたのだ。「うわっ」という驚きを伴う理解だったのだが、それを言葉にするには未熟だったのだろう。誰かにこの「新発見」を話した覚えはない。けれども、後年「ヘレン・ケラーが『water』という言葉と『水』そのものを関連付けることに成功した喜び」というエピソードを知った時に、「それだ!」と膝を打った。あれは、文字の連なりである文章が、私に向かい物語として「意味」以上の何かを伝えることを知った瞬間だったのだ。


 世に読書家の数多くとも、そのタイプは人それぞれだろう。また、一人の人の中でも色々な好みを併せ持っている。私も様々な会派(図書館派・娯楽追求派・速読派etc.)に属しているが、その内でも特に「再読派」の傾向が強い。一度読んで気に入った本を、何度もシツコク読み返すという嗜好のことだ。好きなシーンや台詞というものがあって、「このページをめくるとあの言葉が出てくる」と分かっていながら毎回わくわくできる、安上がりな性格の持ち主でもある。
 何度読んでも飽きない本、というものは確かに存在する。全ての歌にハモれるお気に入りのミュージカル映画のようなものだ。だが、久し振りに読み返す本が、それこそあの日「ピーターラビットのおはなし」で得たような衝撃を伴い、完全に新鮮な物語としてよみがえることもある。「こういう話だったのか」という驚きに愕然としながらページを繰り、その幸福な再会に感謝するのだ。当然ながら、滅多にあることではない。


 最近、「ファンタージエン 秘密の図書館」という本を読み始めた。ミヒャエル・エンデの弟子だった小説家が書いた、「はてしない物語」のスピンアウト企画とでも言うべき作品らしい。まだ最初の数ページなのだが、読んでいる内に、先に「本家」を再読したくなった。「はてしない物語」は、小学生の時に買ってもらい、表紙が外れかけるほど読みまくった大好きな本なのだが、(1)実家に置いてきちゃった (2)もう十数年くらい読んでいない。読みたいと思うやガマンのできない私は即座に近所の図書館に赴き、児童書の低い棚を探り、あの「あかがね色の絹」で装丁された本と再会した。(2000年に文庫も出ているようだが、そちらはさすがに違う装丁なんでしょうな。)


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はてしない物語
ミヒャエル・エンデ 上田 真而子 佐藤 真理子 Michael Ende
岩波書店 1982-06

モモ―時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語 鏡のなかの鏡―迷宮 ゆめくい小人 サーカス物語 ファンタージエン 秘密の図書館

by G-Tools , 2006/10/17



 再度言うが、「読みまくった」話である。それこそ、何十回もだ。十数年のブランクを経ても、その内容をしっかり覚えている。こうなってこうなって最後はこうなる……というストーリーは、ほぼ記憶通りである。けれども、再読した私の前に立ち上がったのは、以前よりも強い力を持つ、より素晴らしい物語だった。何故今まで気付かなかったのだろう!という驚きと共に、私は物語にのめり込んだ。
 この物語は、太っちょでいじめられっ子の夢想家バスチアンが、古本屋から持ち出した「はてしない物語」という本の世界に入り込むというファンタジーである。バスチアンが読むのは、ファンタージエンという不思議な国を舞台に、アトレーユという遊牧民の少年が命を賭けた冒険に出るという物語だ。読み始めてすぐに、読者はバスチアン少年と同じ本を手にしていることに気付くだろう。装丁なども、文中で触れられるものと同じ(あかがね色の表紙・活字は二色刷り・各章に扉絵)となっている。何とも魅力的な設定ではないか?(だからこそ、文庫版では若干魅力減となる。)
 子供の頃の私の認識は、せいぜいがとこ「ファンタジーの体裁で語られるビルドゥングスロマン(主人公の成長物語)」であった。さすがにこういう言葉で捕らえていた訳じゃないけどね。こんなこと言う小学生がいたら、キモチワルかろう。中盤までの冒険と友情とファンタジーという部分が実に魅力的だったので、逆に終盤主人公が苦労する場面は余り好きではなかった。だってー、暗いんだもん。
 しかし、大人になった私を魅了したのはその終盤だった。(以降内容に詳しく触れる描写あり。)


 ファンタージエンへと入り込み、その世界の「救い主」となったバスチアンは、そこで望むものを全て実現させる能力を授かる。だが、醜く弱く小さな自分を捨て、新たな姿や能力を得る内に、かつての自分の記憶を失っていく。いじめられていたこと、美しくなかったこと、そして子供だったことを忘れていく。そして、望みは一つ叶うたびに、新たな望みを生んでいく。強さを求め、崇拝を求め、ついにはファンタージエンの支配を望むようになる。誰も彼を諌めない。ただ一人、真の友を除いては。しかし、飢えたように望み続けるバスチアンは彼の友情を理解できず、追従者の甘言ばかりを聞くようになる。炎に包まれるカタストロフを経て、いつしか彼が「望み」そのものすら失いつつあることに気付いた時、バスチアンはそれまでに得た富や権力を一つずつ失っていく。最後の望みを自分で見出さなければ、彼は自分自身すら失うことになるのだ。少年の自身を探るつらい旅が始まる……。


 かつて私はこの終盤のエピソードを、「驕るなかれ」という教訓なのだと思っていた。力を得ても、姿が美しくても、傲慢であれば孤独に陥るだろう……という諫言なのだとも。まるで見当違いではないのかもしれないが、今回感じたのはそれとは少々異なるもの……「自分が何者であるかを忘れないように」という強いメッセージ、かつて子供であった人々を励ますように思える言葉の数々だった。
 例えば、最終盤のある章で、バスチアンは自分が「まちがったことをしてしまった」ことを思い、「わるいことばっかりしてしまったんです」と深く後悔する。そんな彼に、ある人物が「でもそれがあなたの道だったの」と言う。そして、その道はいつか彼の本当の望みを叶える場所へ彼を導くとも。「そこへ通じる道なら、どれも、結局は正しい道だったのよ。
 私は様々な反省と後悔を引きずりながら生きている。恥の上塗りを何度も重ねて、この分野でなら左官屋としてやっていけそうなほどである。忘れられるものなら忘れたい記憶が山ほどある。でも、そういったものを全て含む過去こそが、今の私をこの場所に導いている。ここが「最後の正しい場所」だとは言わないが、今の私は幸福だ。ここへ通じる道なら、どれも、結局は正しい道だったということなのだろうか。
 これ以外にも、大人になったからこそ理解できる言葉を多く見つけることができた。十年後に再度手に取ったなら、また新たな発見ができるかもしれない。幾度もの再読に値する本である。

 
 映画は完全に別物なので、映画だけ見て敬遠されている方がいらしたら、ぜひ原作をお読みください。本は読んだけど映画見てないって人は……まあ、話の種に見るのもいいかも。ちなみに、アトレーユ役のノア・ハザウェイ/Noah Hathaway(ヨダレが出るほどの美少年だった……)の現在を調べたら、役者はやめてオートバイ屋をやっているとのこと。
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ネバーエンディング・ストーリー
ミヒャエル・エンデ ウォルフガング・ペーターゼン バレット・オリバー
ワーナー・ホーム・ビデオ 2002-10-04

by G-Tools , 2006/10/17



 再読して新たな魅力に気付くことができたのは、かつてこの本を知っていたからこそである。子供の頃に「はてしない物語」を与えてくれた両親に深く感謝したい。