天使の牙から

内容(「BOOK」データベースより)
癌で余命いくばくもない往年のTVスター、フィンキー・リンキー。その彼の前に“死”そのものが現われ、死者を蘇らせる奇怪な力を授けてゆく…いっぽう世界的な女優だったアーレンは、ひょんなことから巡り会った一人の戦場カメラマンに真摯な恋心を抱くようになるのだが…ふたつの物語が交錯するとき、明らかにされる衝撃の真実とは。死という永遠のテーマに挑む鬼才、愛と死の錬金術師キャロルがおくる感動の最新傑作長編。

キャロルの小説を読んでいると、日常の幸福な瞬間を何も信じられなくなる。愛するものは、最も辛い状況下で失われたり損なわれたりする。恋人は手ひどいやり方で裏切る。でなければ、自分が恋人を裏切る。良い状況は長く続かない上に、その後訪れる破滅の瞬間をいや増すための前段階でしかない。これ以上なくすものはない、と思っても、それより悪い状況がやってくる。気力充分な時に読んでも、魂を削られるような感覚を味わうことになる。
じゃあ読むなよ、と言われそうだが、それでも私はキャロルの小説を読んでいる。ハードMだから……ではないんだけど、自分でも何故しんどい思いをしながら、カタルシスを期待できるとは限らないのに、懸命にページを繰るのか分からない。語り手としてのキャロルの技術力の高さに負うところも大きいのだが、ストーリー以上の何かを求めていることも確かだ。その何か、がよく分からん。人生の真実ってやつかもしれないが、こんな人生の真実イヤだなあ。残酷さと絶望を味わった後でなくても、美しいものは見えるはずなのに、キャロルは絶対に手を抜かない。何考えてるんだろーな、このオッサンは。さてはハードSだな。
殴られ蹴られ斬り付けられた後に得られる闇の中の小さな光は、明るい場所で得られるよりも輝いて見える。読者がある「真実」を見るためには、ここまで辛い状況を作る必要があるということなのかもしれない。また、本書に関して言えば、魂を削ってでも得る価値のある光であるとも言える。凄く疲れたけれど、また読みたい。
ところで、翻訳の浅羽 莢子さんが昨年亡くなっていたことが、訳者紹介の末尾に書かれていた。(本書の内容以上に)驚いてお名前を検索したところ、ご自身のブログがヒットした。去年の8月まで書かれている。
海外ファンタジーに造詣の深くない私は、キャロル作品でしかお目にかかったことがないけれども、私の人生に大きな影響を与えた作品を訳された方である。米原万里が書いていたが、たいていの場合、外国文学に触れる最初の機会は、翻訳によるものだ。作者は確かに存在するが、読者は翻訳者というフィルタを通してその姿を見ることとなる。ある意味、共同作業と言えよう。だからこそ、訳者は重要な存在なのだ。
浅羽さんのお仕事の精度については、(不勉強ながら)よくは分からない。しかし、彼女の手による文章は美しかった。私にはそれで充分だ。
今更ながら、とても悲しく、深く哀悼の意を表する。願わくは、天使の牙が彼女に優しかったことを。