自殺を考える

最近、特定のウェブサイトで心中相手を募集して集団自殺した人達の話題をニュース番組で見た。タイトルは「インターネット心中」だったかと思う。そのニュースの論調は、「見ず知らずの人間が集まるインターネットは危険だ」というようなものだった。


果たしてそうだろうか?


確かに、広い地域に散らばる他人同士が、複雑な意思の疎通を同時に行う手段は今までなかった。インターネットがそれを可能にしたという点に異議はない。
何かを共有するということは、その「何か」自体を増幅したり変質させたりする可能性がある。人数が多ければ多いほど、その度合は高くなり、外部に与える影響も強くなる。
大勢に共有された感情は、独裁政権を打倒させ、ベルリンの壁を引き倒させ、株価を乱高下させ、そして姦淫した女に石を投げさせる。本来個人が持っていた思いが、様々な反応(共感・同情・反発・発展etc.)を受けることで、複数他者の感情を巻き込み、大きく膨らむのだ。インターネットは、このような状況を簡単に作ることが出来る「場」なのだろう。
「苦しくないキレイな死」という漠然とした思いは、その「場」で複数の人間に共有される。最初からそれが強い願望なのかどうかは知らない。しかし、ファンタジーを共有することで、曖昧な思いが切望へと変わることも充分考えられる。それが、「計画」というよりはっきりしたものになれば……もしかしたら、ほっとするのかもしれない。明確なプランを誰かと共有しているという安心感。


このような「場」は危険だろうか?死を望む人達を罠に誘い込む門だろうか?
そうは思わない。場はただの場だ。河原で芋煮会をしたり、グラウンドで運動会をしたり、おでん屋で合コンしたりするのと変わらない。初めから危険ではなくても、そこにいる人間と、そこにある状況によって、時に危険になりうるのだ。
インターネットという世界も同じだ。見ず知らずが集うというのが特異だとしても、物理的平面を伴わないのが特殊だとしても、そこで起きることはその場にいる人間が自ら選択するものだということに変わりはない。
芋煮会で不快な思いをしたり、運動会で転んで膝をすりむいたり、合コンが絶望的に退屈だったとしても、それはその開催場所の責任ではない。たまたまそういう人がそういう風に集まってしまっただけなのだ。あのニュース番組は、インターネットを語るように、河原と運動場とおでん屋を語るだろうか。場は問題ではあるまい。そこにいる人間(自分も含めて)と状況を考えるのがより一般的な考えだろう。
心中相手を募集するサイトを閉鎖しよう、と言う人がいるらしい。感情の共有を行う場をなくせば、実行もなくなるという考えなのだろう。しかし、思いは消えるものだろうか。一人では死にたくないと思った人間は、インターネット経由で相手を見つけられなかったら、今でも生きているのだろうか?分からない。もしかしたら、芋煮会で知り合った隣町の人と意気投合して、一緒に火鉢を買いに行くかもしれない。退屈な合コンで暗い眼をした仲間を見付けるかもしれない。生きている限り、死ぬチャンスはいつでもある。


私が一番危険だと思うのは、出来事の内容を詳細に伝えるニュースである。甘美な死というファンタジーを持ち始めた「心中予備軍」に対し、仲間がいること、どうやって彼らが死んだか、どこで同士を見付けたかを微に入り細を穿って教えてくれる。TVなんてサイアクである。レンタカーのこの車種をビニールテープでこうやって目張り、火鉢のこの型を練炭と一緒にこのホームセンターで購入……全て画像付きになっている。参考になることこの上ない。あるある大辞典とかで特集したっていいくらいだ。「次は、一酸化炭素の驚くべき働きについて……。」
そんな訳で、本当に危険なのはTV。次に練炭。名前は「練炭心中」に変えてほしいものである。


ちなみに、私はまだ読んでいない本がたくさんあるし、わがまま猫のお相手をせねばならないし、家人の愚痴にも付き合う必要があるし、本場の讃岐うどんをまた食べたいし……煩悩が多過ぎて死んでる暇がありません。


写真:危険なw練炭(実物見たことないや)