三たびの海峡 

三たびの海峡 (新潮文庫)

三たびの海峡 (新潮文庫)

最後まで、集中力を途切れさせない見事な筆力。現在と戦中戦後の間に横たわる年月を感じさせぬ、優れた構成には舌を巻く。以下ちょっとだけネタばれ気味にあらすじと感想。


物語は、終始ある朝鮮人男性の一人称で語られる。
戦中に強制徴用され家族と引き離され、九州の炭鉱で苦役に従事させられる。この時が一度目の渡航―海峡を渡る旅だ。
炭鉱での労務は、日本人監督官と朝鮮人の監視人に厳しく扱われつつ、休みなしに危険な業務に酷使されるものだった。約束されていた給料や待遇は反故にされ、逃走を図ればリンチを受け、死ぬ者も大勢いた。主人公は故郷に残した家族を思い、また生きて故国の土を再度踏むことを願って苦役や拷問に耐えるが、恩人とも言うべき仲間を失い脱走を決意する。そして、その過程で大きな罪を犯すこととなる。
逃亡した後終戦を迎え、愛する女性と共に故郷へ渡る船に乗る―二度目の海峡だ。
そして、四十数年間たった頃、日本からの一通の手紙によって、彼は再び日本へと渡航することとなる―三たびの海峡である。行き先は、辛い日々を過ごした炭鉱の町だ。
長い年月、「手で片眼を覆いながら生き」、日本を無視してきた彼をその地へと誘ったものは何なのか?彼の罪とは?そして、求めるものとは?


私には自覚的「ナショナリズム」がない。日本人である自分というものを把握できない。客観視できないのは無理ないとしても、日本国民であることを誇ったり長所を挙げたりすることができない。空っぽの器に、その時気に入っているアイデアを詰め込むようなもので、文化的背骨に欠ける。「理想はコスモポリタンだな」とか言ったりもするが、実際には絵空事であると知ってもいる。
戦後教育の洗礼の賜物、と言ってもさほど責任転嫁にはならないだろう。あとがきで関川夏央氏が「戦後このかた日本ではナショナリズムはタブー視されてきた」と書いている。私は、戦直後の教育を受けた「団塊の世代」、その子供世代の末期に当たる。ナショナリズムをタブー視する教育と、成長の終わった社会に生まれた保守的思想のボーダーラインにいる。
そのため、我々より少し上の世代で盛んだった社会参加や活動には無関心ではあるが、下の世代ほど右傾化していない。革新派には冷淡だが、かと言って保守反動にも眉をひそめる。サヨクは電波と揶揄するが、ウヨクはやくざだと思っている。ウーマン・リブには付いて行けないが、自分で「どうせアタシ女だし」とかいう若造にはアホかと言いたくなる。
相反する価値観のどちらにも属さないことで自由だと思いたいのだが、結局は根無し草である。
主人公は、戦時中は残虐な日本人に加担し、戦後は朝鮮人である不利益からさっさと逃れるために帰化したある男を、このように描写している。「民族の誇りなど持ち合わせていないその場限りの人間……」。
私は、そういう人間だ。
しかし、悲観はしていない。「民族の誇り」も過剰になれば異文化の排斥になるだろう。たいていの憎しみの原因は、何かに対する愛から生まれるものなのだから。
だが、日本と朝鮮民族に複雑な感情を抱き続ける主人公には、私のような、恵まれているがゆえにアイデンティティを放棄した人間はさぞ許せまいと思う。


日韓の遺恨―正確には、朝鮮人の遺恨とすべきだろうか―は、世紀を跨いでもまだ消えぬものだろうか。過去を顕現させ続けることは、遺恨を後世に残すだけではないのだろうか?新しい世代は贖罪と弾劾ではなく、未来へと協調して行けぬものだろうか?生まれ変わってやり直すのは、裏切りだろうか?
上記のような私には、本書を真に理解できているとは思えない。そのため、最後まで読み切って、主人公の選択には賛成しかねる自分がいる。また、その自分は理解できぬ自分を恥じてもいる。愛国心とは何か、民族の誇りとは何かを見つけられぬ自分への不安と……またこれでいいのだという肯定もある。
答えはいずれ見付かるだろう。焦らずに探す。
何かと考えさせられた一冊であった。評価も半端にして保留とする。★★★☆☆