夏の椿

夏の椿

夏の椿

心に染み入る、静かな秀作である。
時代小説好きには勿論、しっとりとした恋愛小説を読みたい方、緻密な捜査過程を楽しむ推理小説ファンにも強くオススメしたい。★★★★☆


時は天明(1781-1788)*1、所は江戸、元鳥越(現在の浅草鳥越二丁目辺りらしい)。
田沼意次政治が終焉を迎えつつあり、また天明に入ってからこっち、諸国飢饉に打ち壊し、浅間山噴火に江戸の大水と不穏な時勢であった。
立原周乃介は、30半ば。武家の妾腹に生まれ、母親とは早くに死別した。父親に引き取られたが、本妻やその息子たちとは折が合わず、辛い幼少期を過ごした。優しくしてくれたのは、祖母と、姉の佐江だけだった。幼時から厳しく剣を仕込まれ、いずれはどこかの旗本へでも養子に行くはずだった彼は、二十歳を過ぎた頃にグレてしまった。一年座敷牢に閉じ込められたが、祖母の手引きで家を出、以降家族とは会わずじまいであった。
30を過ぎた今は、刀の目利きや、道場の師範などをして糊口を凌ぎ、彦十店(げんじゅうだな)という長屋に落ち着いている。悪い付き合いも、今はもうない。
そんな彼の元に、12年ぶりに父親が現れる。かつては恨み、憎んだ男。しかし、今や職を退いた還暦の老人である。また、周乃介もかつての父を理解できる年となっており、もはやわだかまりはなかった。
そして、父は周乃介に頼みごとをする。佐江の息子、周乃介の可愛がっていた甥の定次郎が、先日の水害以降行方不明だという。定次郎は、かつての周乃介のように道を踏み外していた。他人事には思えぬ周乃介は、彼の消息を追い始める。すると、定次郎は豪雨の最中、刀傷が元で死亡していることが判明する。何故?そして誰に?
定次郎の死を探るうちに、周乃介は大掛かりな謀(はかりごと)へと巻き込まれていく。他人の不運のたびに富んでゆく米問屋、その謎の過去と、影に動く男。定次郎が身請けしようとしていた遊女。次期将軍と見込まれる一ツ橋家のエスピオナージ。定次郎が命を賭けたのは一体なんだったのか……精緻な江戸風俗の描写が、あなたを物語の世界に深く引き込むことだろう。
ハードボイルドな主人公の、きりりとした美しい生き方に魅せられた。脇を固める登場人物の描写も、細かなところまで実に繊細に描かれておりすばらしい。
時代小説は難しい、よく分からないよ……という方にも是非読んでいただきたい。私とて、「なんじゃそりゃ?」と思う部分が多かったが、「猪牙船」とか「百目蝋燭」がなんだか訳わかめでも、それで物語の興趣が失われることはない。読んでいる間は、何故か言葉遣いがキレイになるような気もするし、一挙両得。


松本清張賞の最終候補作となった本作は、原題「天明、彦十店始末」を「夏の椿」に変えて発表された。うん、こっちの方がずっといい。
紹介してくださった方に感謝の一冊。

*1:この物語では、多分天明5〜6年の設定