負けるもんか

 かねがね「こいつだけには負けたくない」と思っている相手がいる。
 それは、私の本能である。ことわざにも言う。「敵は本能にあり」。
 腹が減れば好きなだけ食えと言い、腹が立てば思うさま罵るが良いと言い、腹が一杯になればさあ寝ろと催促する。腹ばかり例に出てくるのは、多分私の腹が出ているからであろう。
 ともあれ、「負けたくない」と思っている癖に、私はいつもこいつに勝てない。
 人間は常に理性的であるべきだ。感情は豊かであるに越したことはないが、それを好き勝手に他人にぶつけることは避けねばならない。常に自律の意識を高く持ち、欲望の赴くままに生活するようなことがあってはならない。
 そう信じているのだ。しかし、私はしばしばヒステリックになり、軽挙妄動し、さぼったり食べ過ぎたり不要な物を買ってしまったりする。人として勝たねばならぬ相手に連戦連敗である。あーもう、もっとがんばれ私の理性


 だが、事ここに来て、更なる強敵が現れようとしている……のかもしれない。
 それが、「母性本能」である。まだ見えないが。あるのかどうかも定かじゃないが。
 そんなもん本能じゃなくて後天的に身に付く(或いはそれを期待される)社会的ふるまいだ、または、女性に対する偏った性的役割の押し付けだ、などの説があることは承知だが、折角戦うので敵は大きいままにしておく。
 何せ、母性本能である。逆らいがたい力を感じる。例え社長にグーパンチしてしまっても、それが母性本能によるとされたなら、誰でも許してくれそうな勢いがある。男性諸氏にもお試しいただきたい。
 英語で言うと、maternal instinct。日本語はこれを直訳したもののようだ。例文を付けるなら“She acted on maternal instinct.(彼女は母性本能に従って行動した)”。うわー、何したんだ、彼女。
 前述の通り、今の所そんなすげーものの発露は見られない。何よりである。しかし、いずれ現れるのかもしれない。そうなったらどうしよう!……これが、目下の悩みである。


 「本能」と名の付く以上、「あって当然」と思う人は多かろう。それだけでなく、「なくてはならない良いもの」と考える人も多分いる。不足したなら努力して補うべきだ、と無茶を言い出す人も出て来る。何せ、こんなアホらしい企画をやったTV番組もあるほどである。
http://www6.ocn.ne.jp/~syuneido/mother.htm
 しかし、これはそんなにありがたいものだろうか?
 血を分けた自分の子供を守り、慈しむ。そのために攻撃的なふるまいに出ることもある。時に、自らの安全も省みずに子供の安全を図ろうとする。子供の幸福をひたすら願い、自分は常に後回しだ。
 書いてみると、やっぱりありがたいような気もする。私もお母さんが欲しい。(いますが。)
 だが、自らの遺伝子を受け継ぐ実子を愛するなんて、自分を愛しているのと同じである、と考えることもできる。コピーを増やそうとする利己的な遺伝子に操られているだけなのだ、とも。
 私は何も、「自分の子供を可愛がるなんて、あなたは何て自己中心的な人なの!実家に帰らせていただきます」とか言いたいのではない。自分の子供は可愛がりたい。「きんぎょがにげた」*1を読んでやり、つぶさないように添い寝し、できる限り美味しいものを食べさせて、いつか幸せな大人になるのを見たい。
けれども、度が過ぎた愛情を持たずにいられるだろうか?という不安がある。何でも子供を中心に物事を考え、それがために他の人に対しての配慮が疎かになってしまうのが嫌だ。過剰な愛情は、自己愛の投影に過ぎない。
 つまり、これは「子供天動説」に陥らないようにしたい、という決意表明なのである。母性本能を持つのもほどほどにしなさい、ということだ。


 世のお母様方(うちの母も含む)をないがしろにするつもりは毛頭ないのだが、自分の子供を愛するよりも尊いのは、赤の他人に対して同じだけの愛情を持つことである。カッコウを育てるミソサザイなんて、見てると涙が出て来る。(これこそ「本能」のなせる業なのだろうが、人間の目に付いたうろこフィルタを通すと無償の愛に見える。)
 要は「うららが一番」ということである。実際にはそんなことできないだろうと知っているからこそ、ゆめゆめ猫をないがしろにしないよう心掛けたいという決意である。
 そんな訳で、尚早に過ぎるのは承知の上だが、ここで一句。
子供より猫が大事と思いたい  きりん
 お粗末。