選挙に物思うこと

 今度の日曜日は、衆議院議員選挙である。
 郵政民営化が争点だとか、いーやそんなことはどーでもいいんだとか、オチのない四コマ漫画 ってどうなのさとか、何やら従来よりも世間の関心が高いようだ。資本主義社会の暗い未来像は、虚無と無関心に支配されているらしいので、ちょっと軽薄でも政治に対する関心が高まるのはいいことだろう。(これが維持されるか、また行政というシステム自体がそれを望んでいるのかはまた別問題だが。)
 当日は「戌の日」でもあるので、天候に恵まれたなら鬼子母神にでも詣でて安産祈願とのダブルヘッダーの予定である。久し振りにカメラを持って外出予定。楽しみ。


 さて、肝心の投票だが、候補者の絞込みは既に済んでいる。てゆーか、消去法で決めた。積極的に全政策を支持できる政党・候補が存在しないのは残念だが、100%満足したいならば自分が立候補するしかない。だが、私はしたくない。(原則的に)自分がしたくないことをしている人にイチャモンを付けるのはよろしくない。ということで、女は黙って黒酢ドリンク。おまかせしますと票を出す。
 「指示する割合」を投票できたらなあ(支持率0〜100%を候補者別に記入する)、とも思うが、そんなことをしたら「迷わない支持者」を抱える政党の丸儲けだな。あの人たち、選挙活動する必要ないと思うのだが、実に熱心に街宣しておられる。「既に磐石の支持基盤を得る我々は、皆様の生活に障りの出る選挙カー・拡声器での選挙活動を行いません!」とかやった方が、よほど「その他の選挙民」の好感を得られると思うんだが。


 その「選挙カー」だが、あれを評価する選挙民というのは存在するのだろうか?主たる要素は名前の連呼。政策を述べもするけれど、行き過ぎる車両から、割れ鐘のような音声で語りかけられて、誰が傾聴しようとするだろう。
 日本に在住する外国人に「日本の選挙活動の印象」を尋ねると、この「選挙カー」に対する違和感をまず挙げる人が多いという。(日本の社会には「音」が多過ぎるという総評もあった。)どこかにソースはないか……と探していたら、「外国人による日本語弁論大会」の出場者の原稿(pdfファイル)を見ることができた。
 筆者はオーストラリア人。(彼女の原稿で初めて知ったのだが)オーストラリアでは投票が義務なのだという。棄権すれば一万円程度の罰金が科せられる。必然、選挙民の関心は高く、選挙活動は分かりやすくなる。それに比すると、日本の選挙民の関心の低さ、選挙活動の合理性のなさは……というごく短いスピーチなのだが、今まで「選挙カーうるせー」とブツブツ言うだけだった私はいたく反省し、またちょびっと感動した。(この人が実行してるって訳じゃないので、口だけと言えばそーなんだけどね。)


 ところで、選挙当日には「最高裁判所裁判官 国民審査」というものがある。これが、選挙以上に分かりにくい。
 辞書の定義によれば、「最高裁判所の裁判官が適任であるかどうかを、国民が投票によって審査すること。また、その制度。各裁判官について、その任命後最初の、およびそれ以後は一〇年経過するごとに初めて行なわれる衆議院議員総選挙に際して審査される」。
 最高裁判所の裁判官が適任かどうかって……そんなことをワタクシごときが決めちまっていいもんなんでしょうか?と思わず卑屈になるほど立派な民主主義制度である。最高裁判所裁判官のお仕事についての無知が恥ずかしくなる。
以前の機会には、率直に申し上げてテキトーに無記入であった(何も書かなければ、全員を適任であると認めることになる)。しかし、今回はちょっと予習することにした。調べたところでどなたかを不適格とするようなことはないだろうが、知った上での信任ならば自己満足の度合いも上がろうというものだ。
 http://homepage2.nifty.com/misoshiru/mg/shinsa.htmでお勉強。中には賛同できない判決を出された方も見られるが、多様性こそ民主主義の根幹と考え、今回も全員適格として無記入の予定。