英語の壁

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英語の壁 文春新書 326
マーク・ピーターセン
文藝春秋 2003-07-19
評価

心にとどく英語 マーク・ピーターセン英語塾 続・日本人の英語 日本人の英語 ニホン語、話せますか?

by G-Tools , 2006/10/12



 タイトルを見る限りでは、英語の「分かりにくさ」を解説する書物のように思える。しかし、実際の内容はアメリカ人の著者が様々なシチュエーションで感じる「違和感」について語るエッセイと言う方が近かろう。映画や小説に見られる表現から、細やかなニュアンスの違いを生み出す用法を紹介する場面もあり、その部分もまた興味深い。また、日本で発売されているCDに添えられる「歌詞カード」のあまりの杜撰さを知り、愕然とした(第2章・90p)。


 著者はアメリカに生まれ育ち、大学院で日本近代文学を学んだ後日本に留学、現在は明治大学で教鞭を取っているという人物である。井上ひさし筒井康隆を(当然原文で)楽しむのは勿論、中勘助樋口一葉の文体の美しさに心打たれるほど日本語に精通している。私の読んだことない(日本の)本をたくさん読んでいる。また、映画や料理を楽しみ、人生を深く豊かに堪能してもいる。
 しかし、同時にタイヘン気苦労の多い方でもあるようだ。ブッシュ大統領のバカさ加減にアメリカ人として恥じ入り、権威ある批評家と意見が異なれば「趣味の違いだ」と分かっていながらも少しがっかりし、日本人が「実力以上に」英語力を過小評価したがることを嘆き、教師として学生の陥りがちな特定の過ちが根絶できぬことに悩み、日本製の間違ったままの英和辞書に憤り、そして自分の日本語力がまだまだ充分でないことに時々落ち込む。なんちゅーか、頭のいい人はタイヘンである。★★★☆☆


 本書で最も印象に残ったのは、「英語第二公用語論」のあほらしさを説明する部分(3章・128p)である。この論を主張する人々は、「第二公用語というものは本来、第一公用語ができない国民が多すぎて社会問題になってしまっている場合に、やむを得ず設けられるもの」という前提を無視して、「『そうすれば、日本人全体の英語力がそれで向上する』」という効果を当てにしているようだと筆者は言う。そして、この「日本国民全員に強制的に一つの外国語を覚えさせようとしているところ」が、日本における英語教育の誤りではなかろうかと推測するのである。
 外国語を習得しようとするなら、ただシャワーのように浴びてさえいればどうにかなるというものではなく、それなりの決意と努力と時間が必要である。一クラスの中には、意欲のある生徒もいれば、ない生徒もいる。熱意あふれる人と渋々やっている人、全員に同一水準の教育を行おうとすれば「授業内容が薄まってしまい、誰一人としてさほどの上達はしない」。英語教師の質が低いとも言われるが、作者は自分が出会った教育者は熱心で優秀な人が多かったとも言う。ただ、自主的に学ぶ意欲を持たぬ人間がだらだらと長期間「勉強」しても、「長いことベンキョーしたけど、全然しゃべれない」=「日本人には英語センスが欠けてるんだよ」などとコンプレックスを持つだけではないだろうか?


 幼い内から「叩き込む」ことで語学力を向上させられると信じる人は多い。文部科学省は、小学校の英語教育について早ければ2007年度から必修とする方針で協議している。やるのは別によろしい。でも、私自身の経験からすると、実にあほらしい。
 私は中学・高校時代、英語ではオチコボレだった。綴りが覚えられず、語彙が増やせず、文法が理解できず、前置詞に混乱し、英作文はからきしで、長文読解はテキトーにしかできなかった。発音に関しては、ネイティブの講師に「タヒチへ行きたい」と伝えるためだけに講習時間の大半を費やした覚えがある。途中から開き直って「私が行きたいのは常陸です」と言い直そうかと思った。
 それなのに、何故か社会人になってから「英会話を勉強したい」という望みを持つようになった。やる必要がなくなったらやりたくなる。怠け者の節句働きとはこのことであろう。しかし、節句働きにしては中々がんばった。英会話スクール入学時に「中学生レベル」と評価された私の英語力は(我ながら)ものすごい勢いで伸長した。自分を絶賛したい!だって、絵本みたいな教科書から始めて、ディスカッションのクラスまで行ったんだよ。6年かかったけど、TOEICで825点だって取った(じまん)。今はもうスクールにこそ通っていないが、勉強は続けたいと思っている。
 学校とスクールでは何が違ったのか。それは、「正確であること」を求める学校教育と、「言いたいことが通じればいい」というスクールの姿勢の違いにあったのだと思う。少人数(幸運にも数年間はマンツーマン)だったこと、自腹だったこと(なんとしてでも元を取ろうと積極的にしゃべりまくった)なども良く働いた。単語の羅列でもいい、とにかく通じれば……という気持ちになると、語彙を増やそうという意欲が湧く。好きな翻訳小説を原文で読んでみると、時間はかかっても最後のページまで辿り着けた。多くの文例に触れると、徐々に正しい文法が理解できるようになった。未だに前置詞では混乱するし、文章を構築する技能(書くスキル)もまるでなっていない。メール一本作るのに、辞書と文例集首っ引きである。映画だって、字幕ナシでOKとは言えない。でも、私には高校時代までは自ら培えなかった自信が付いた。それは、伝えたい・知りたいことさえあれば、語学を学ぶ意欲は努力につながり、また成果も得られるということを知ったからだ。
 小学生に英語を「叩き込む」ことで、日本人全体の「語学力」が上がるかどうか、私には分からない。「14年間学んだけれど……」とならなきゃいいな、とは思う。英語の前に、正しい日本語を「叩き込む」方が重要なんじゃないの?とも。外国語は待ってくれるが、母国語こそは幼い内に身に付けたものが一生付いて回るからである。文科省におかれては、是非そこらへんヨロシクご再考願いたい。