魔王



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魔王
伊坂 幸太郎
講談社 2005-10-20

by G-Tools , 2006/10/15



 今年初めて読んだ小説。
 正直、感想や評価をうまく言葉にすることができない。しかし、読みながら、また読み終えてからも様々なことを考えた。
 ある意味とても恐ろしいフィクションである。現実と重なる部分、類似する要素がその恐怖感を増す小道具となっている。楽しい話ではないし、読後の爽快感も得られない。だが、読んで、感じて、考えてほしい。「そうなったら」どうしたいだろう?どうできるだろう?「覚悟はできているのか?」★★★★☆


 ストーリーは紹介しない。(調べようと思えば、いくらでも手段はあるし。)読書感想文も書けそうもない。だから、本書を読んで感じたことをつらつらと書く。


 「私を束ねないで」と思うのと同じくらい強く、私は力強い誰かに全てを決めてもらいたいと望んでいる。「自分のしたくないこと」はしたくないのだが、「自分がしたいこと」が自分にとって真に有益なのかどうかが判断できない。全知全能のシステムがあるなら、その「おまかせプラン」に全部丸投げしてしまいたい。束縛のない混沌よりも、規制によってバランスが取れている秩序を好ましく思っている。つまり、私が望む「自由」なんて、その「力強い誰か」が許してくれる範囲のことでしかない訳だ。
 そういう風に無責任な自分が怖い。自律性を自ら放棄し、楽な道を選び、時折聞こえる自問の声にはこう答えるのだ。「だって、こうするしかないじゃないの」と。そうありたくない。でも、既にそういう生き方を選んではいないか?そして、そこから抜け出すためにはどうすればいいのだろう?

 多様性が認められる社会。私が望んでいたのはそういうものだ。
 でも、時々ぼんやりと考える。今の日本に満足できないのは、放埓な「自由」が跋扈しすぎたせいではないだろうか?全体主義によって暴走した過去を恐れる余り、戦後教育は「個人主義」を拡大解釈しすぎたのではないだろうか?現代の日本には、明確な政治体制や国教となるような宗教のような、いわば「文化的背骨」となる一貫した価値観がない。何かの名の下に団結することがない。このままでは、ばらけて混乱しているだけの利己主義を「自由」とみなすしかなくなり、結局は暴走する個人主義の横溢で誰一人幸福にはなれないのではないだろうか?個々が「全体」に貢献しようという意識がなくなり、それぞれの快楽だけが追求されていったならば、倫理は荒廃し、公共の福祉がないがしろにされてしまいはしないだろうか?
 こう思っている間、私は気付いていない。最大多数の幸福を願うようにみえるこの考えが、実のところ「力強い導き手」待望論でしかないことに。不満足な現状を打破できるのは、今ここにはない存在なのだという空虚な理論であるということに。

 私が望む「自由」はささやかなものだ。できる範囲で満足できるだけの好きな本を読み、好きなものを食べ、好きな場所へ行き、好きな人々と交わる。自分が標準から離れることを恐れつつも、他人にスタイルを強制されず、また他人にそれを押し付けることもせず生きられることだ。
 けれども、これだけのことを「ささやか」と感じ続けるためには、何かせねばならないだろう。学び、考え、選択し、決断する必要がある。覚悟はまだできていない。でも、それをいつまで先延ばしできるだろう?いつまでに自分の真の望みを把握することができるだろう?この国のあるべき姿を理解することができるだろう?