やりきれない



かん子さんを預けている保育所は、今までのところ中々良い印象である。
経営者は、「子煩悩」とか「子供好きを絵に描いたよう」とかいった表現からはいささか遠い感のある、飄々とした初老の男性。お役所で、腕カバーして書類を作っていそうなタイプである(偏見)。保険年金課とか課税課とかが似合いそうだ(空想)。お昼は愛妻弁当で、食後は給湯室で弁当箱を洗うんだけど、帰宅後に奥さんに渡して、もう一度洗ってもらうタイプだな(妄想)。
それはともかく、この人には、「体操のおにいさん」みたいな暑苦しいほどの笑顔と情熱などは感じられない。いつもクールで、時折見せる控え目の笑顔には、ちょっと困ったような表情が混じっている。しかし、夕方、かん子さんを迎えに行くと、しばしば彼がやんちゃな男児達に飛びつかれながら相手をしており、そんな時でも静かなのだが、それでも愛情を持って接している様子が垣間見れて好感を持てる。
保育士の女性たちは、お嬢さんとでも言うべき若い方から、私と同年代の方、私の母に近そうな年齢の方と層が厚く、こちらはどなたも「体操のおねえさん」みたいな感じである。かん子さんがすぐここに馴染めたのは、このお姉さま方のお蔭だろう。(蛇足だが、給食担当の栄養士さんはどえらい美女であった。「美人栄養士が作る給食」とか前面にアピールすべきではないだろうか。)
たまたま近くにあった保育所が、こんな良い所で幸運だった。


さて、私が迎えに行く18時過ぎには、もう数人の子供が残るのみである。2-3歳の子が2人程度に、後はそれより幼い子供が3-4人といったところである。
鍵を開けてもらって中に入ると、保育士さんがオムツを替えたり、上着を着せたりと帰り支度をしてくれる。それをドアのところで待っていると、いつもお迎えを待つ子達がやって来て、色々と話し掛けてくる。
今週のある日のこと。男の子と女の子が駆け寄って来て、それぞれに私に話し掛けた。
女の子「ママまだ?」
男の子「パパが来るの!」
女の子「パパはバイクに乗ってるの!」
ここで、男の子が「うるさい!」と叫び、女の子を小突いた。私は「だめだよー」と止めたが、男の子はなお力を入れて女の子を突き、彼女は後ろによろけて、子供たちの上着がかけてあるコートハンガーの中に、背中から倒れ込んだ。
私が、コラッとか大丈夫?だとか騒いでいるのを聞きつけた保育士が飛んで来たが、女の子はちょっと驚いた様子なだけで、けろりとしていた。しかし、ここに彼女のお母さんがお迎えに現れた途端、力が抜けたのか、母にアピールするためか、女の子は火がついたように泣き出した。保育士が状況を説明し、お母さんは「別に大丈夫ですよ〜」と娘をあやしながら帰って行った。
泣き叫ぶ彼女が帰り、かん子さんを私に渡した後、保育士さん達は男の子をビシッと叱っていた。私はかん子さんを抱いて外に出て、彼女をベビーカーに座らせ、やたらとあるベルトを一つ一つ留めていた。男の子が小さく泣く声が聞こえていた。
そこに、保育所前の広場を横切って、ミニチュアダックスフントを伴った男女がやって来た。白いジャージ姿の男性は、三十代半ばくらい。ジーンズの女性はそれより少し若いだろうか。ダックスのリードを持った男性を残し、女性が保育所のドアを開けた。小さかった男の子の泣き声が急に大きくなり、女性が「何泣いてるのー」と声を掛けるのが聞こえた。先程の女の子同様、母親を見てヒートアップした男の子は、一層声を上げて泣き始めた。その時、白いジャージの男性が、保育所のドアに体を入れて言った。
「泣いてたら、ぶったたくぞ」
「そういう汚いマネ(同情を引くために泣くことか?)誰に教わった?誰に教わったんだよ!」
中の灯りに照らされた顔は赤かった。酔っているようだ。彼は女性に何か言われて、再度外へ出た。準備を終えてその場を去る私の横で、彼はダックスのリードを鞭のように犬にぶつけて遊び始めた。私は、悔しいような腹立たしいような、形容しがたいやりきれなさを感じながらベビーカーを押した。


「パパが来るの!」と喜んでいた男の子の、あれが「パパ」なのだろうか。実際には、子供を殴ったりしないのかもしれない。口が悪いだけで、優しいパパなのかもしれない。いつもはあんなことだって言わないのかもしれない。たまたま今日だけ、さっきだけのことなのかもしれない。そうであってほしい。そうあるべきだ。
そうでなければ、やりきれない。