ヘルファイア・クラブ

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ヘルファイア・クラブ上
ピーター・ストラウブ 近藤 麻里子
東京創元社 2006-08-24
評価

by G-Tools , 2007/01/26

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ヘルファイア・クラブ下
ピーター・ストラウブ 近藤 麻里子
東京創元社 2006-08-24
評価

by G-Tools , 2007/01/26

【商品の説明・内容(「BOOK」データベースより)/上巻のみ】
ノラの友人ナタリーが寝室に血痕を残して消えた。彼女の本棚には、謎めいた作家ヒューゴー・ドライヴァーの、熱狂的なファンを持つファンタジー『夜の旅』が。この事件を機に、ノラは義父の経営する出版社〈チャンセルハウス〉が半世紀以上も秘めてきた謎に近づいていく。が、彼女に殺人鬼の凶手が!しかも、それが夫デイヴィーの知人だったとは!ストラウブの最高傑作登場。



と、いうのが本書に付けられた粗筋だが、実際にはこういう話ではない。厳密に言えば、こういうエピソードも含みはするが、これだけの話ではない。しかし、秘密と謎と嘘が核にある本作を紹介するためには、(善意ある人物には、)これだけしか書きようがないのかもしれない。
そんな訳で、私の高評価を信じてくださる方には、ぜひこの先をお読みにならぬまま、本書を手に取っていただきたい。念のため、恐ろしく血生臭かったり、胸がむかつくほどおぞましい描写が多出することだけお知らせしておく。最近ちょっと繊細になってきている私は、上巻後半で少し気分が悪くなった。妊娠中に「クリムゾンの迷宮」*1を読んだ人間の言うことではあるが。


内容に多く触れます。読むつもりの方は、ご覧にならないでください。


あえて乱暴な言い方をするならば、イカレた人間ばかりが登場する小説である。
主人公ノラは、49歳。ベトナム従軍経験のある元看護婦。その時に受けた辛い経験から、心と体に深い傷を負っている。最近更年期に入ったばかりで、自らの体の反乱に強く戸惑っている。近隣で起きている連続殺人事件に知人が巻き込まれ、精神的不安は増すばかり。しかし、捜査が進む内に、FBIにそれに関わる容疑をかけられることにもなる。
彼女の夫デイヴィーは、彼女より10歳年下で、父の経営する出版社「チャンセル・ハウス」で閑職をあてがわれている。上司であり暴君でもある父の支配から逃れられない彼は、「チャンセル・ハウス」の事実上唯一のドル箱であるファンタジー小説、「夜の旅」に耽溺しており、自らを主人公の少年になぞらえている。「夜の旅」のことを語る時以外は、彼はひたすら嘘をつく。読者にもノラにも、本当のことは分からない。
その父オールデン・チャンセルは、書物に無関心、商売に大関心。不誠実と虐待で妻デイジーをアルコールに走らせ、息子を束縛して飼い殺し、自分に従順でない息子の妻を憎んでいる。
かつては小説家だったデイジーは、いまや自室にこもってタイプライターの前に座り、キーに触ることのないまま、グラスを空けることに専念している。
これが主人公の家族である。どうです、楽しそうな小説でしょう。
そして、忘れてならないのが、デイヴィーの友人で、一家の顧問弁護士の息子で、弁護士事務所の一員でもあるディック・ダート。文字通り「後家殺し」の彼は、上巻半ばでノラを誘拐し、彼の愛する「夜の旅」を巡るツアーに無理矢理同行させる。外科医志望の殺人鬼にして、きれい好きでセンスが良く、女性心理や更年期の問題に通じるダートは、逃避行の最中にノラに様々な「教育」を施す。下着から揃えて服を買い与え、あらゆる化粧品を用意した上に、メイクアップのテクニックまで伝授、髪型まで整えてしまう。一度逃げ出したノラを再度捕らえた時には、こんな台詞を言う。「おまえの化粧を直したいんだよ。おれの作品をだいなしにしやがって、まったく見るに耐えん」。(私はこのエピソードを聞いて、本作を読んでみたのだが、思っていたようなのんきなものではなかった。)
中々彩りのある人間関係である。そして、彼らの作る渦の中心にあるのが、主人公ノラと、小説「夜の旅」なのである。


存命中に上梓したこの一冊だけのために名を知られる作家、ヒューゴー・ドライヴァー。その死後に発見された遺稿により、二編の続編が出版されてはいるものの、評価を受けているのは「夜の旅」だけである。
物語のあらすじは、通しては語られず、印象的な箇所しか紹介されることはない。各部の扉裏にエピグラムのように「引用」される文章は、余りにも断片的であるがゆえに、かえって魅力的である。
主人公は、少年ピピン・リトル。「この世のひとつ前の世で、迷い子のピピンが目をさますと、あたりは深い夜だった。」そして彼はさまよい始める。広く、暗い世界を旅し、おぞましかったり恐ろしかったり偉大だったりする登場人物(洞窟に住む老人「優しき友」、廃屋で隠れる少年を執拗に探す邪悪な老婆、狼の姿をした「夜の王」……)の下を訪れ、勇気とは、恐怖とは何かについて悟りを得ていく。その後、「ピピンは自らに課せられた使命の本質を理解した。理解するのは困難ではなかった。問題なのは、その使命が遂行不可能であることだった。」……。
断片的にしか見えないこの小説のストーリーこそが、本作の核である秘密と謎と嘘の源となっている。このフィクションの断片が組み上がっていく過程で、ノラと読者は現実の世界で起きている、驚くべき真実と対面することになるのだ。
また、本作「ヘルファイア・クラブ」そのものも、「夜の旅」を内包し、かつその中に包まれてもいる。中心にあり、同時に周囲を取り巻いてもいる。「ヘルファイア・クラブ」上下巻を並べると見える一冊の本が、「夜の旅」であるというデザイン(イラスト:山野辺若、デザイン:東京創元社装丁室)は、このアイデアを形にしたものと言えるだろう。秀逸。
さて、主要人物の中で、ノラだけがこの小説を読んでいない。(だからこそ、読者もその内容を知ることができない訳だ。)それなのに、彼女ばかりがこれに関わる盗作疑惑だの、これに関するキーワードがやたらにリンクする過去の出来事だのに、強制的に巻き込まれていく。その内に、彼女は自らの意志で「夜の旅」の真実を巡る旅に出ることになる。後を追う殺人鬼とFBI。友人の裏切りと失意。意外な助力と、もっと意外な真実。そして、逃避行の中で、「夜の旅」が生まれた時と場所にまつわるエピソードの数々が収集されていく。全ての謎が解き明かされる時、ノラは何を見るのか……。
陰惨で、ダメ男続出で、主人公が徹底してひどい目に遭うストーリーではあるが、読後感は清涼である。複雑な構成と、しつこい殺人鬼を乗り越える必要があるけれど。ちなみに、翻訳はいまひとつ。「ヴィクトリアズ・シークレット」*2を「ヴィクトリアの秘密のカタログ」と訳すのはいかがなものか。「根暗の根性曲がり」を略して「根根」……「ネネ」と呼ぶ、という訳にも釈然としない。


それにしても、私は「フィクションの中のフィクション」に弱い。「コーデックス」で「キムメリア人の国への航海」に惹かれ、今度は「夜の旅」を読んでみたくてならない。

*1:

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クリムゾンの迷宮
貴志 祐介
角川書店 1999-04

by G-Tools , 2007/01/26

*2:http://www.victoriassecret.com/リンク先を開く時は充分にご注意を