2/21 出産記



 「痛い話」のピーク。物好きな人だけが読むように。


 破水して24時間が過ぎた。だが、子宮口はまだ全開とはなっていない。
 21日(火)の朝、診察に来た医師(小柄でキュートな女医さん)が何やら内診していたと思ったら、「ちょっと力抜いてー」と軽く言う。「?」と思いつつだらーんとしていたら、どこぞをぐいっとやられ、中からどばーっと生温かい水分が流れ出てきた。中途半端だった破水を進め、陣痛をなお促進させるとのことだが……ううっ、キモチワルイ。
 そして、二度目の陣痛促進剤の投与が午前9時半に始まった。


 この頃、家人は家に戻っている。木曜日から「いつ生まれてもおかしくない」状態が続いていたので、彼は数日間仕事を持ち帰ったり、深夜に出勤したりと、かなりタイトなスケジュールを余儀なくされていた。病院に顔を出す度に、疲労が溜まっていくのが分かる。共倒れ(?)してもしょうがない。そのため、看護師さんに「分娩に間に合うよう連絡する」ことを頼んで、家で休んでもらうことにしていたのだ。
 11時頃、私は前日以上の「くぅぅぅぅー」という痛みに悶えていた。様子を見に来た助産師さんは「順調に行けば、2時頃には産めるわよ」と言う。にじ!まだ何時間もあるじゃないか!
 そこへ、家人からメール。
「どう?」
「つらいー はやければにじごろ」(変換する意欲がない)
 しかし、ここまで思い通りになっていない状況が、ここで予定通りに進むと思っていたのが大間違い。見込み違いは最後まで続くのだった。


 11時半、痛みは耐え難く、ベッド脇の柵をガタガタさせながら、私はただひたすら呼吸法に専念しようとしていた。
 事前にラマーズ法の本も読んだ。陣痛室で過ごす間に私を追い越していった他の妊婦さんが、隣の分娩室で力んでいる様子だって充分に聞いた。正しい呼吸法を確実に行えば、お産は順調に進行するはずなのだ。涙を流しながら、しかし私は「ふぅぅぅー」という長く息を吐く方法を繰り返していた。時折、痛みの余り「ふう、ふう、ふう」のような短い呼吸になってしまう。すると、即座に過換気の症状(手に痺れが出る・意識が遠のく)が現れる。こんなんじゃダメだ、と自分を押さえ付けるようにして、再度長く息を吐く。これを繰り返していると、段々朦朧としてきた。
 そんな時、突然周囲が騒がしくなった。検診で来ていた臨月の妊婦さんが、内診の結果子宮口全開だったらしく、緊急に分娩となったらしい。私はまた「追い越された」のだった。とほほ。


 しかし、ここで私の子宮が突然発奮した。12時を過ぎた頃、子宮口ほぼ全開となり、過換気でヨロヨロの私は歩いて10秒の分娩室まで車椅子で移動。ようやく分娩台に乗ることとなった。
 だが、医師・助産師の予定では、私の分娩は2時のはずだったのだ。1時から別の妊婦さんが、帝王切開で出産予定。そして、隣の分娩台では先程の妊婦さんが既に出産中。カーテンに仕切られて見えないそちら側には、かなり大勢の人がいる気配。当然ながら、私は後回しである。
 痛みは募るばかりなのに、私の傍らには今日の担当助産師が一人付き添うばかり。しかも、彼女はどうやら新任のようで、引き継ぎを受けながらの作業なのである。
「はーい、だんなさんには連絡しましたからねー。頑張ってねー。(私に話し掛けている。)あ、すいません、これはどうすればいいんですか?○○はどこにありますか?(先輩助産師に質問している。)」
 心細さクライマックス。


 隣の妊婦さんの出産が終わり、その場にいた医師・助産師が部屋を出てしばらくたった頃、私の陣痛がピークになった。呼吸は乱れ、手が痺れ、意識は朦朧とするが、それで痛みが消えるわけではない。気を失うことができたらどんなに楽だろうか。
 あまりの辛さに「もうやめましょう、今度にしましょう」と言ったような気がするが定かではない。でも、「こんなに辛いならもうイヤだ」というのは率直な気持ちだった。
 細かい時間は分からないが、おそらく13時前後。「力まずにいられない」という状況をつくづく思い知った。
助産師「まだ力んじゃダメよ!」
わたし「でもー、どうすればー力まずにー済むんですかー!」
助産師「呼吸法!呼吸法で逃がして!」
わたし「できないー!」
 本当に、アレを我慢しろっていうのは無茶だ。お前もやってみろ!と言いたくなるが、まあ彼女たちは以前にやっているんだろうな。
 そして、足元に回った先輩助産師が叫んだ。
先輩助産師「もう出て来る!センセイ呼んで!」
後輩助産師「カイザー(帝王切開)の方に行かれてます!」
先輩助産師「誰かー、センセイ呼んでー」
 医師がいないのか!私は焦った。私も叫んだ。
わたし「センセイ呼んでーっ!
 分娩室のすぐ外で待機していた家人曰く、「君の叫びは(他の人より)ヘンだった」。あんな状況じゃ、ヘンにもなるわい。


 結果として、センセイは間に合わなかったらしい。医師が着いた頃には、もうほとんど産まれていたのだ。助産師の集団に取り囲まれ、呼吸法を指導されながら、痛みと疲れでぼうっとしつつも力んだり弛緩させたりしながら、「この人たちってチアリーダーみたいだなあ」などとぼんやり考えたりもしていた。
 平成18年2月21日13時13分。のんびりやの胎児は、ようやく外の世界に出て来た。体重3180g、身長51.4cmの女の子。
 「わあっ、大きい赤ちゃんですよ!」と見せられた赤ん坊は……本当だ、でかい……てゆーか、長い。血と胎脂にまみれた彼女は、それでも汚らしくは見えなかった。でも、頭に何か黒いものが付いている。拭いてあげて……と呟くと、これからお風呂ですよ、と連れて行かれてしまった。


 感動とか感涙とかよりも、疲労と茫然自失が先に立っている状態で、しかし「出産」処理は続く。まず胎盤が出て(後産)、その後も出すものを出す作業(何だかよく分からん)があり、真の恐怖体験がそれから始まった。
 医師の到着より先に力んでしまったため、どうも会陰切開(リンク先に痛くて詳細な説明あり)が間に合わなかったようなのだ。切らずに済むならラッキーかと思いきや、切っておけば数箇所で済んだかもしれない裂傷が、20箇所近くできてしまったらしい。自然裂傷は厄介なのだ。まず、全ての傷の位置をチェックし、それからそれらを全部縫う。麻酔の注射はするが、効かないのか、すぐ切れてしまうのか、その恩恵を感じることはほとんどなかった。
 助産師が「はい、あとちょっとですからね」と言ったにも拘らず、縫合処理は30分ほどを要することとなった。「ちょっとって言ったじゃないですか!」と途中叫んだ。助産師は再度、「はい、あとちょっとですからね」と言った。うううう、うそつきー。


 分娩台に乗ったまま一時間経過を見た後、個室に移るようになる頃に発熱した。熱自体は38.2℃と、大したことはない。だが、ここ数日の疲労が蓄積した体は、体力を使い切っていた。手足がぶるぶる震え、強い悪寒を覚え、思うように身動きが取れない。ボルタレン(鎮痛・消炎剤)を処方してもらい、傷の痛みを抑えたが、疲れ切っているのに眠れない。出産後に赤ん坊に会っていないのも気になる。
 家人が頼んでくれて、院内用のコット(移動式ベビーベッドのようなもの)に入れられた赤ん坊が部屋にやって来た。洗われて、白い産着に包まれた小さなこども。ピンクのタオルを布団にして、すやすやと静かに眠っている。そして、そのおでこの左側には、先程気になった黒いものがそのままあった。大きな痣があるのだった。