ツイラク



五ヶ月児は歩けない。匍匐前進もできない。しかし、仰向けになったまま、足の裏で床を蹴って移動することができる。ぐいぐい動く。
それなのに、愚かな私は、大人用ベッドの上にかん子さんを置いて、その場を離れてしまった。風呂上りのミルクを用意する、ほんの一分ほどの間。すぐに戻るから大丈夫だと、勝手に信じていた。
あの時の「ゴン」という大きな音を、私はしばらく忘れることができないだろう。哺乳瓶を持ったまま私は走り、ベッドと壁の隙間に頭を下に落ちているかん子さんを引っ張り上げた。ベッドの高さは50cm。わあわあと大きな声を出して泣く赤ん坊を抱いて、私は呆然と後悔と興奮がごっちゃになった感情をどうにか押さえ付けて、冷静になろうとした。


この時、水曜日の夜八時。普段なら私とかん子さん(と猫)しかいない時間だったが、珍しく家人が既に帰っていた。私がかん子さんから目を離す時、家人に預けるべきだったのだ。しかし、彼が別の用事をしていたこともあり、私は特に声を掛けることすらしなかった。
私に続いて飛んで来た家人は、相当動揺していたのか、こんな小さい時期に頭を打ったら「チエオクレ」になるなどと恐ろしいことを言う。冗談じゃない、大丈夫だ。私は、わあわあ叫んでいるかん子さんの口に哺乳瓶の乳首を含ませた。赤ん坊は、泣くのを止めてミルクを飲み始めた。ごくごく飲んだ。あったかくて湿っぽいかん子さんを抱いて、私はめそめそと泣いた。何度も何度もごめんねと言った。


ミルクを飲み終えたのを確認した後、行きつけの小児科に電話で相談した。手足の動きがおかしい、極端に不機嫌、飲んだものを吐くなどの異常がなければ、そのまま様子を見るようにと言われた。家人の主張で、別の総合病院にも相談の電話を掛けた。そこは脳外科に繋いでくれて、同じようなアドバイスをされた。診察するとなると、CTスキャンをすることになるが、じっとしていられない赤ちゃんはCTを撮りにくいとも。
かん子さんはと言えば、いつもなら既に寝かされている時間に起きていられる上に、いつもならいない家人にずっと抱っこされているので、すこぶるご機嫌であった。頭にはコブもなく、おかしなところは見付からなかった。


「育児の百科」では、「赤ちゃんのツイラク」について次のように書いている。

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定本育児の百科
松田 道雄
岩波書店 1999-03

by G-Tools , 2006/10/20


赤ちゃんが、……ツイラクを経験せずに育つということは、まずない。ツイラクして頭を打ってばかになるのだったら、人類の文明は存在しないだろう。……せいぜい1メートル以内のツイラクで、あとに何か異常をのこした経験を私はもたない。
 たとえ下が板の間だろうが、落ちてすぐにワーッと泣きだせば、大丈夫。
……
 ……落ちたときすぐ泣いて、ほかに何の故障もみうけられず、元気な赤ちゃんでも、その日は、なるべく静かにさせる。入浴はさせない。翌朝まったく元気であれば、生活もいままでと同じようにし、夕方には入浴させる。

数日様子を見たが、殊更おかしい点は見られなかった。ひとまず安心ではあるが、もう二度と同じ失敗はすまいと心に誓った。