育児ノイローゼ



かん子さんは、手の掛からないことこの上ない赤ん坊である。何でもおいしく食べ、ゴキゲンに一人遊びし、寝付きがよく、一度寝ると中々起きない。
しかし、成長に伴って、最近少しこの様子が変わってきた。
かん子さんの食事の時に、デザートとしてリンゴをサツマイモやカボチャと和えたものを出す。コレが気に入ったかん子さんは、おかずにブーイングをするようになった。「デザートを早くよこせー」とばかりに、視線をリンゴに固定して、おかずに口を開こうとしない。「まんまんまんまんまー」と催促をする。いや、どっちかっつーとおかずの方が「まんま」なのだが。
根負けして、途中でリンゴを与えると、満足気に手を打ち鳴らしながら食べる。その後すかさずおかずを食べさせると、しばらくは騙されるのか口を開けるのだが、徐々に口が重くなってくる。そして、再び始まる「まんまんまんまんまー」。
また、以前よりも「構って」と要求するようになった。機嫌よく遊んでいるので、安心して別室に用を足しに行ったりすると、今までにない大きな声で叫んだり、突然激しく泣いたりする。近くにいさえすれば大抵は満足するようだが、かと言って、トイレにも行けないのでは困る。それに、安普請の集合住宅住まいである。ちょっとドキッとするような大声で叫ばれると、小心者の心臓にはやや辛い。
更に、「夜泣き」の頻度が上がった。睡眠中に寝ぼけて泣くのだが、今までは手を握ってやるとすぐに落ち着いていたのが、そう簡単にはいかなくなった。手を握る→私の手を握って爪を立てる(乳児の薄い爪は食い込みやすくて痛い)→私の指をかじろうとする(真剣に噛むので痛い)→落ち着かない私の気配を察するのか、中々落ち着かず、うずくまるようにうつぶせになる→その姿勢だと苦しくて眠れない→うわああああん……。オムツを替え、ミルクを飲ませても、寝ぼけたまま泣き続けることもある。


どれも些細なことである。気持に余裕がある時は、かわいいのう、で済ませることができる。
しかし、自分が切羽詰っている時には、これらの状況が恐ろしく大きなストレスになるのである。


慣れない仕事で、中々定時までにノルマをこなすことができない。でも、保育園のお迎えがあるので、残業するわけにはいかない。「明日やります」が溜まっていく。
空腹で帰宅して、食事の用意をする。不機嫌になると厄介なので、自分のものより先に赤ん坊の離乳食を作る。食べさせる間にも、空きっ腹はぐうぐう音を立てる。しかし、赤ん坊は好き嫌いをして、中々食べようとしない。
お腹が空いていないのだろうか、と思い、一人で遊ばせている間に自分の食事を用意する。面倒な時は惣菜やパンを買ってしまうので、今日こそは野菜を多く使った料理を作らねば。材料を切り始めると、計ったように赤ん坊が泣き出す。駆け寄ってあやすと、機嫌が直る。安心して離れると、また泣く。お腹が空いたのかと思い、先程の離乳食を温めると、今度は食べた。自分のお腹は満たされないまま、台所は散らかっている。
気付くと胃が重い。背中がぞくぞくする。風邪を引いたようだ。腸の調子が悪くなり、トイレに行く。赤ん坊が泣く。トイレから声を掛けるが、逆効果で益々大きな声で泣く。トイレをガマンして戻ると、赤ん坊はすぐ笑顔を見せる。私は必死だが、赤ん坊は余裕なのだ。そう思うと、自然と腹が立つ。「あなたも少しはガマンしなさい」と言ってみるが、聞くはずもない。
どうにか寝かし付けて、作りかけの食事を作る。食欲のピークを過ぎた上に、風邪っぽくて胃がもたれている。でも、健康のためには少しでも食べなきゃ。そう思って食卓につくと、いたずらな猫がやって来て、私のおかずを奪おうとする。自分のゴハンはあるのに、好奇心でやっているのだ。「あなたのゴハンじゃありません」と叱って、食卓から降ろすが、猫に八つ当たりしているようで後ろめたい気分になる。
仕事は休めない。体調を戻さないといけない。手早く台所を片付けて、身繕いをして布団に入ると、赤ん坊が夜泣きを始める……。


と、まあこれはフィクションです。これが一度に起こったことはまだないです。かん子さんとうららが同時にウンチをしてあせるとか、そういうことはあったけど。
しかし、「育児ノイローゼ」というものについては、何となく理解できたような気がする。それは、手の掛かる赤ん坊単独で発生するものではない。母親の気持のゆとり如何に掛かっているのである。
赤ちゃんが泣こうがわめこうが、母親に体力・時間の余裕があれば問題はない。抱いてあやして、落ち着くまで子守専従でいればいいのだ。しかし、現実にはこうはいかないことが多かろう。家事もある、他の子供の世話もある。家庭によっては、他の「大人」も世話しなければならない。自分の体調管理も、常よりは難しくなるというのに、一層の健康維持に配慮せねばならない。
専業主婦ならば楽だろう、などとは思うなかれ。一日中手の掛かる乳児と共にいるのは、保育所に子供を預ける母と同じくらい、またはそれ以上に状況は厳しいはずだ。精神的に追い詰められるケースも、働く母親より多いのではないだろうか。「ずっと在宅なのに、何故家事ができていないのだ」と妻を責める夫がいたら、私が出張して折檻して成敗して退治てくれよう。


ちょこっと大変な現状ではあるが、「夫」の不在はあまり関係がない。以前でも、同じ状況ならば「不在」に変わりはないからだ。
それよりも、私は「奥さん」がほしい。「おかえりー」と迎えてくれて、「ご飯できてるわよ」「お風呂沸いてるわよ」とか言ってくれる。お茶を入れて、仕事の愚痴を聞いてくれる。育児は私がするけど、いざと言う時は「見てるから大丈夫よ」と言ってくれる。ああっ、奥さん!って感じ。(訳分からん。)
近所に住む母が、時々コレ↑をしてくれるのだが、もうそれはそれは助かっている。夕方に「ちょっと見てるから、今の内にシャワー浴びてきたら?」とかいう小さな気遣いの、どれほどありがたいことか!そうなんだよ、気付くと子供は毎日風呂に入っているのに、自分は頭が洗えなかったりするんだよ。(最近はちゃんと洗ってます。ご安心ください。)
母でもある妻を持つ男性諸氏は、時々自分の方が「奥さん」になって、ご令室を労わってあげてください。あなた達も充分大変だろうから、いつもじゃなくていいんだけど、時々やってくれたら(たぶん)カンゲキです。


私の育児ノイローゼ回避法は、「とにかく手を抜く」。
かん子さんが空腹で不機嫌なら、離乳食は買い置きの瓶詰めを食べさせる。手早くカンタン。作り置きしたおかずなどを、小分けで冷凍するのも便利。
好き嫌いをするなら、食卓から離す。一回食べないからって死にゃしません。お腹が空けば、また食べます。
自分のご飯は作り置き。大鍋一杯のカレーを、一週間かけて食べればいいんです。
台所は明日の朝片付ければいいんです。
猫は叱ったって許してくれます。だって、全然気にしてないから。
会社だって、仕事だって、いざとなれば休めるはず。死にゃしない、殺されやしない。
なんだってどうにかなる。
必ず来るどうにもならない時のために、ひたすらのガマンや辛抱は取っておこう。
一番大事なのは、まず生きていること。そして、決して自棄にならないこと。完璧じゃない自分を意識しつつも、許すこと。
こんな風に、時々自分に言い聞かせること。


さて、明日もまたがんばろう。